COLUMN
コラム:差別はどのように生まれるのか、差別はどうして無くならないのか
LGBTQに限らず様々な人たちへの差別が横行している今、差別の本質について考えてみましょう
(写真は「東京トランスマーチ2024」より)
今月(2025年8月)は、毎日追いきれないくらいたくさんのニュースが届いていた6月のプライド月間とは対照的に、LGBTQに関するニュースが本当に少なくなっています。こんなに少ないのはひさしぶりです。メディアの関心が離れてしまっているのではないかと心配になります…。
そんななかでも、北海道新聞「性的少数者への差別「子供の命に関わる」当事者が帯広で講話」や、弁護士ドットコムニュース「球児に「国に帰れ」、京都国際への「ヘイト投稿」相次ぐ…府と市は削除要請、高野連はどう対応する?」、毎日新聞「<1分で解説>新潮社、高山正之氏のコラム終了 差別的な内容掲載で」といった差別に関する事柄が日々、紙面やニュースサイトを賑わせています。差別とは何か?といったことを改めて深掘りするような記事や、差別的な政治家を選ぶことの危険を危惧する声なども上がっています。
こうした記事を紹介しつつ、差別はどのように生まれるのか、差別はどうして無くならないのかといったことをちょっと深く考えてみることで、より差別に敏感な人(よりフラットに人々に接することができる人)になれるのではないかと思い、コラムをお届けすることにいたします。
(文:後藤純一)
webマガジン『mi-mollet(ミモレ)』の「【差別ってなに?/前編】「それは仕方ないよね…」と許容されてしまう「不平等(差別)」があること、気づいていますか?」という記事では、先月の参院選の最中、Xがとんでもなく差別的な投稿だらけで、あろうことか国会議員(それも政党の党首)からも「女性にとっては理解は難しい」「高齢女性は子どもが産めない」などといった発言が次々と出てきて打ちひしがれたというライターの渥美志保さんが、江原由美子さんの『増補 女性解放という思想』をベースに「差別って何だろう?」と掘り下げていました。
江原さんはフランスの作家アルベール・メンミの定義を用いながら差別を以下の3つのポイントで説明します。
(1)(実際の、あるいは架空の)差異の強調
(2) 差別される側に不利をもたらすような価値づけ、評価
(3) 実際に存在する不平等(差別)の正当化
例えば(1)女性は感情的だから→(2)仕事に向かない→ゆえに(3)出世は後回し、とか、(1)女性は妊娠・出産する→(2)男性と同じように働くのは無理→ゆえに(3)昇進できない、といったケースがそうで、差別の論理は、この3つが非常にうまい具合に絡み合って形作られていると指摘されています。「高齢女性は子どもが産めない」という発言も、若い女性と高齢女性の差異を「少子化問題に役立つか、役立たないか」という特定の基準で「価値づけ」されていることが差別的なのに、「単なる事実を言っただけ」などと言って逃げられてしまいます。「差別ではない、区別だ」という主張もこれに似ていて、その「区別」は恣意的な価値基準によるものでしかありません。
江原さんはこの「差別の論理」そのものが不当なのであり、差別される側がこの理屈に乗っかってしまうことは差別する側の罠にハマるようなものだとおっしゃっています(慧眼です)
後編では、このことをさらに深掘りしています。
「「差別」とは本質的に「排除」行為である。「差別」意識とは単なる「偏見」なのではなく、「排除」行為に結びついた「偏見」なのである。「排除」とはそもそも当該社会の「正当な」成員として認識しないということを意味する。それゆえ「差別」は差別者の側に罪悪感をいだかせない。なぜならわれわれが他者に対する「不当な」行為に対して罪悪感をいだくのは、他者を正当な他者として認識した時であるからである」
「「差別」が「排除」であることから、被差別者に対するオーヴァー・カテゴライゼーション(筆者注:過度な一般化)が説明される。すなわち、「排除」するために必要な他者の認知は最少でよい。「排除」すべきカテゴリーに属するか否かを知れば良いのであり、それ以上認知する必要はない。被差別者は特定の指標でもって簡単に「排除」され、それ以上の認知は行なわれないのである」(『増補 女性解放という思想』より)
筆者(渥美さん)は、苺だらけの世界に生きるゴーヤを例に挙げ、ボコボコしてて緑色で見た目が良くないうえに苦いといったことが理由ではなく、端的に「苺じゃないから」差別されているのだと、カテゴリー化(「ゴーヤだから」)や、特定の属性(「苦い」)の強調が後付けされ、不平等を正当化する理屈として仕立てられているのだと説明しています。多くの苺からすれば、きれいな白ゴーヤだろうが甘い完熟ゴーヤだろうが関係ありません。にもかかかわらず、差別されるゴーヤのほうが「私だって、努力すれば苺みたいになれる!」と躍起にさせられるのです(「差別の論理」に乗っかるのは「罠」なのです)
「苺」をシスジェンダーや異性愛者、「ゴーヤ」をトランスジェンダーなどの性的マイノリティに置き換えてみると、LGBTQ差別のことがよりイメージしやすくなると思います。トランス女性が“女装した男性”でも“性犯罪者”でもない(むしろ性被害に遭っている方だ)といくら言ってみても、差別者は初めから「排除」ありきで、社会の「正当な」成員として認識せず、そうだとわかったら簡単に「排除」し(李琴峰さんのケースのようにアウティングもして)、「理解を深め、支援しよう」などということにはならないのです。
これは「ジェンダー/セクシュアリティの社会史」の研究者(福島大学教育推進機構高等教育企画室准教授)であり、「ダイバーシティふくしま」の共同代表であり、ふくしまレインボーマーチの運営にも携わってきた前川直哉さんのXへの投稿で知ったのですが、『差別論』という本で佐藤裕さんという方(富山大学人文学部教授)が「差別の三者関係」を提唱しています。
佐藤裕さんは江原さんの議論が様々な差別問題に共通する基本的な問題点を明確にした一方で、女性は「男性でない」という理由で差別されているとされているが、なぜそれが逆ではないのか(どういう人々が差別(排除)されるのか、それを決定する要因は何か)、排除はどのようになされるのか、ということに疑問を持ち、「差別者」「被差別者」に「共犯者」を加えた三種類の行為者によって構成される「差別の三者関係」を考えました。差別者が自分以外の全員を差別するということはありえず、必ず「排除されない(同化される)」人たちがいます。彼らは(先の参院選の結果にも表れているように)マイノリティがありもしない“特権”を持つとか、ありもしない“危険な”性質を持つかのようなデマを鵜呑みにし、共にマイノリティへの見下しを行なうように煽動されることによって差別への「共犯者」になりうるのだという鋭い指摘です。(詳しくはこちら)
では、人々がこうした「差別の論理」に与することなく、差別の「共犯者」になることもなく、自身の内の偏見や差別心を真摯に見つめ、差別者からアライへと変わっていくことは可能なのでしょうか?
同じ『ミモレ』でヒオカさんという方は、映画『おっパン』に希望を見出しています。
大地と円は同性カップルであるが故に、国には「例外」という立場をとられ続け、社会には「いないこと」にされ、「想定されていない」ことを突きつけられる、その繰り返しで、「世の中の隅っこに追いやられてる」という感覚が生まれ、ときに追い詰められます…。主人公の誠は最初、「そういった社会からはじき出されるような痛みや生きづらさを無視して、平気で「いないこと」にする人たち」の一人で、かつての部下にも「LGBT? そんなの知らんよ。だいたいうちの職場にはそんなのいないだろ」と言ってしまっていました。しかし、ゲイの大地と出会ったおかげで、LGBTQに関する認識をアップデートし続け、大地と円の結婚式の仲人を務めるまでになり、かつての部下にも非礼を詫びました。
ヒオカさんは「誰かを傷つけるような言動をしていないか自省することで、あえて傷つけるような振る舞いに加担しないことはできる。差別的な言動をとっていないか自省をやめないこと、差別はいけないと声を上げることはできる。そこがきっと、大きな分かれ道なのだと思います。『おっパン』は、そんな“自省する人”をかっこよく描いていました。「生きてきた時代が違うから、失言しちゃうかもだけど大目に見てね」という方向には逃げなかった。それがなんとも頼もしく感じ、強い希望に思えました」と結んでいます。とても素敵な記事でした。(「LGBTをめぐる政治への不安。目の前にいるのに「いないこと」にする人たちと、映画『おっパン』の“自省”に見た希望」より)
さらに同じ『ミモレ』のエッセイ「「何をしてくれるかな」で選ぶ政治の危険性。独裁はいつも通りの風景の中ではじまる」で(金沢のプライドをはじめたくさんのLGBTQイベントに参加してくださっている)小島慶子さんは、選挙でどの候補者に投票するかということに関連し、「努力して成果を出さずとも、あなたが日本人であるだけで、あるいは男性であるだけで、性的マジョリティであるだけで、母親であるだけで、若者であるだけで、なんであれ"ありのままの自分"であるだけで認められ、優位に立てるとしたら。そうすれば、人生はもっとうまくいくだろうか。あなたと異なる人々さえいなければ、あなたはもっと大事にされるだろうか。つらい目に遭っても我慢しているあなたには「痛がり、欲しがるやつらを制裁する権利」があるのだろうか。あなたは傷ついているのだから、気に入らない人をいじめても構わないのだろうか。そうだそうだと叫ぶあなたが、胸の内にいるかもしれない。差別や暴力の芽は、誰の中にもある」と綴り、今のこの状況に警鐘を鳴らしています。
「外国人や女性やトランスジェンダーの人や障害者や病気の人や高齢者や、誰であれあなたにとって目障りな者をいじめると、自身の首を絞めることになる。「邪魔者は、いじめていい」が罷り通る世の中では、いじめが蔓延する教室と同じことが起きるからだ。次はいつ自分がやられる番になるのかわからないのだ。人は、誰の邪魔にもならないで生きていくことはできない。そして誰が邪魔者かを決める権利は、あなたにはない。邪魔者認定されたら排除されるだけだ」
少し前の記事ですが、ヒューライツ大阪(一般社団法人アジア・太平洋人権情報センター)の「差別とは何か、その不当性はどこにあるのか~差別を哲学する」という、堀田義太郎さん(東京理科大学教養教育研究院准教授)のセミナーの内容をダイジェストにした記事が興味深かったので、ご紹介します。
堀田さんは、「教師が、実験などの後片付けをもっぱら女子生徒に依頼する」「教師が、重いものを運ぶ作業をもっぱら男子生徒に依頼する」「会社が、産休や育児休暇取得率に基づいて、同じ能力を持つ求職者の内、男性を雇用する」といった様々な事例から、どんな行為が差別にあたるかを参加者に考えてもらうグループディスカッションを実施しました。特に悩ましい事例や意見が分かれた事例について簡単に発表をしてもらい、差別とは単なる不利益を与える扱いではなく、「特徴に基づいて」不利益を与える扱いだと言えることを確認し、「男らしさ」と「女らしさ」に伴う社会的な役割の男性優位的な非対称性について考えを深めました。
堀田さんは、「子どもがいる女性の帰宅が仕事で遅くなることが話題になっている時に、「お母さんが家にいないなんてかわいそう」と友人が言う」ようなケースが一種のテンプレートとして社会に流通していて、発言者も特に深く考えずに言えてしまうが、そこにこそ問題がある、「マイクロアグレッション」と呼ばれるケースだと指摘します。「発言や行為そのものは「些細」なものに見えるため、何がこの害をもたらすのかを即座に説明したり指摘することは難しく、そのことがさらに、そうした言葉を向けられた人を苦しめます」「マイノリティにとっては、一見些細なものも含めて「個々の出来事」が「共鳴し触発」しあって、大きな差別構造の「具現」として現われ、さらなる差別に晒される可能性によって沈黙させられ、行動を抑制されます。この経験は、マイノリティの被差別経験の核心にあると言えるでしょう」「しかし、マジョリティはこのリアリティを共有していないため、分かりません」
結びで堀田さんは、「差別はなぜなくならないのか」という、非常に重要ながら難しい問いについて考察し、答えを導いています。
「特定の集団(例えば女性、在日コリアン、黒人、アジア系外国人、障害者)を劣位化するような特徴付けやイメージが、それらのつながりが明確に自覚されない仕方でテンプレートとして流通しているので、それを総体として考えなければならないからです。特定の集団を劣位化するようなイメージの「つながり」というのは、例えば「女性は手先が器用。繊細できめ細やかな気配りができる」といった一見ほめるような発言から、「だから外科医の適性がある」という話にはならず、「家事に向いている」「子育てに向いている」などの発言に結び付いてしまうということです。これはそうした「つながり」を容易に連想させ、それを説明するために利用できるような、様々なイメージ――物語や表象の力も大きいでしょう――が流通しているからです」
「自分の行為や発言がどのような意味を持つのかについて、意識的に認識する努力をしない限り、差別に加担してしまうので、差別に「悪意」は不要です。むしろ、文化も含めて社会の構造に関心をもって、積極的に知ろうとしない限り、ほぼ差別に加担してしまうと思った方がよいでしょう。成長する中で人びとが内面化していく文化自体に差別を支える考え方や連想、イメージが埋め込まれているので、差別をなくすためには文化全体の構造、つまり相互に繋がっている言説や連想、イメージを全体として変える必要があります。そのためには、月並みかもしれませんが、何よりも事実を知る必要があるでしょう」
特定の集団を劣位化するような特徴付けやイメージが明確に自覚されない仕方でテンプレートとして流通しているというのは、上記の江原さんの「差別の論理」にも通じるお話だと思います。「物語や表象の力」に言及され、「文化全体の構造、つまり相互に繋がっている言説や連想、イメージを全体として変える必要があります」とされていることには全面的に賛同します。映画やドラマでマイノリティを公正に描くこと、リプレゼンテーションの重要性に確信を持てました。
最後に、マイクロアグレッションにも関係する本として、どうして人は差別してしまうのか、差別とはどのように生まれるのかということの本質を、誰でも読んでわかるような言葉で鋭く解き明かしていくような良書『差別はたいてい悪意のない人がする』をご紹介します(2023年9月のメルマガでお送りした内容のダイジェストです)
著者のキム・ジヘさんは、「差別というのは私たちが思うよりも平凡で日常的なものであり、固定観念を持つことも、他の集団に敵愾心を持つこともきわめて容易に起こりうるし、だれかを差別しない可能性なんてほとんど存在しない」と語ります。この本を読んでいくと、「私にも気づかずやっちゃってる差別があるんだろうな」と気づかされます。差別は多重的なものであり、誰もが、ある面ではマジョリティだし、ある面ではマイノリティです。しかし、人はなかなか自分が差別する側だと気づかないし、認めたがりない、それはなぜなのか、ということが、詳細な事例や研究データを交えて、実に具体的に語られていきます。比較的マジョリティ側にいて差別を意識することがあまりない方にとっても、被差別の属性を持つことで生きづらさを感じている方にとっても、本当に示唆に富む本です。直接LGBTQについて言及した箇所はそれほど多くないのですが、「目から鱗」の連続体験ができる名著だと思います。
- 合わせて読む
-
LGBTQ理解増進法について
LGBTQ理解増進法の成立を受けて、どんな法律なのかを確認しつつ、企業様が求められる対応について、現時点で言えそうなことをまとめました。 -
SOGIとは
LGBTではなくSOGIという言葉を見聞きする機会も増えてきました。どういう意味を持った言葉なのか、どういう使われ方をするのか、お伝えします。 -
改正パワハラ防止法のポイント:公表の自由、顧客対応、就活生
今般のパワハラ防止法改正に際し、カミングアウトの禁止・強制もパワハラに該当しうること、SOGIハラがカスハラに該当しうること、就活生に対するSOGIハラの防止も必要であることが指針に明記される見込みです。今後の社内施策もアップデートが必要になります。ポイントをお伝えします -
LGBTQマーケティングとは
LGBTQの「市場」をどう捉えるべきか、マーケティングは可能なのかといったことをお伝えいたします。 -
リプレゼンテーションとは
映画やテレビなどのメディア表現において、社会を構成する人々の多様性を正しく反映させ、マイノリティが公正に描かれることを目指そうとすることです
- INDEX