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男性どうしの揺れる恋心を描いた映画と「コラボ」したイラストが男女に置き換えられ炎上、謝罪へ

 10代の時のデビュー作『マイ・マザー』がカンヌ国際映画祭で三冠を獲得し、「天才」「神童」「アンファン・テリブル(恐るべき子ども)」の名をほしいままにし、『Mommy/マミー』は同じくカンヌで審査員賞を受賞、2017年の『たかが世界の終わり』はカンヌでグランプリ(2位)に輝き、弱冠26歳にして史上最年少でカンヌの審査員も務め、世界の映画界の注目を集める若き天才、グザヴィエ・ドラン。カナダ出身のオープンリー・ゲイの映画監督であり、その作品のほとんどが、ゲイを主人公にしているか、ゲイが重要な役割を演じるような作品です。9月25日から公開される新作『マティアス&マキシム』は、ドランが、美しい青年と少年がバカンスで一夏の恋に落ちる映画『君の名前で僕を呼んで』を観て「恋についての真実を審美的な映画で観ることはなんて感動的なんだろう。僕は自分が20代の頃のことを思い出した」と感銘を受け、制作した映画です。幼なじみのマティアスとマキシムは、友人が撮る短編映画で男性どうしのキスシーンを演じることになり、その偶然のキスをきっかけに、秘めていたお互いへの気持ちに気付き始める…という物語です。
  
 しかし、この『マティアス&マキシム』を日本で上映するにあたり、配給会社が、ソファに座っている二人とキスをする二人という2枚の写真(映画からのイメージカット)と同じ構図で、マティアスとマキシムを「男女」に置き換えたイラストのポスターを公開したのです(※現在は非公開になっています)
 この事件は、SNS上でたいへんな批判を浴び、結果、配給会社は謝罪文を掲載することになりました。「男女」のキャラクターは配給会社の指定です。しかし、「企画意図が不明瞭なまま伝わってしまう可能性の検証不足」などと、問題視されている点についての反省はなく、傷つけられた当事者に対してではなく作家さんに配慮しているかのような文章であったことが、さらに波紋を呼びました。
 
 詩人の最果タヒさんは、「ドランはこの映画について「ゲイについてではなく人生についての映画だ」と言っている。「これはただのラブストーリーなんだ」私も、そうだと思う。愛は愛だよ、ゲイの映画にある愛だって、ただの愛だ。でも、それをずっとそう見ようとしなかったのはヘテロ側で、「ただのラブストーリー」という言葉はそのグロさに対する言葉でもあるように聞こえた」と語っています(多くの方の共感を呼んでいます)
 いきものクリエイターのぬまがさワタリさんは、「実際には社会の支配的なシステムと深く結びついた異性愛表現が、場合によっては酷く抑圧的になりうるという危険性に、最も自覚的であるべき人々が無自覚なのが怖い」と語っています(たくさんのいいねがついています)
 ほかにも、「女性の辛さを語るときに「男性も辛いよね」、黒人の命が軽んじられている時に「みんなの命が大切だよね」、同性愛にスポットを当てる時に「(異性愛を出してきて)愛は同じ愛だよね」。全部中立を装ったマイノリティの透明化・問題点の矮小化」であるとか、「企画の意図は理解しましたが、それでもやるべきではなかった。現在の日本では、まだ同性愛について理解が得ているとは言えない中でのヘテロウォッシュに見られる行為は当事者の尊厳を奪います。そういった批判はすべて無視して、担当された漫画家さんと関係者への謝罪なら表に出す必要はないです」といったコメントが上がっています。
 

 なお、この映画の配給会社も事前の記事で紹介したり、ツイートしたりしていますが、ドランは本作について「僕にとっては、これは同性愛についての映画ではないし、ゲイの愛についての映画でもない。もちろん、その要素はある。だけど主人公の二人が、これがゲイの愛だと気付いているとは思わない。ただの愛だ。25年にわたって兄弟同然の親友だったのに、ある日、愛がドアをたたく。あのキスでね。オープニングでのキスが全てを揺さぶり、二人の関係が再定義されることになる。僕にとって、これは第一に友情についての映画なんだ。友情は愛よりも確かで、強いものなのか? 友情は愛なのか? それがこの映画で僕が提示したものだ」と語っています。これは、カナダのような(日本とは異なる)同性婚先進国で生まれ育った若いドランが、ゲイが直面する困難や社会的課題といったこともよくわかったうえで、映画という表現の世界で、あえてその先(ホモフォビアというものがない「理想状態」における男どうしの愛)に踏み出したということではないでしょうか。
 ちなみにドランが感銘を受けた『君の名前で僕を呼んで」は、古代ギリシャ〜ローマの、男性どうしの愛が理想的な関係として称揚されていた(差別もホモフォビアもない)時代へのオマージュが込められた作品と解することができます(こちらのレビューをご参照ください)。ドランが「これは同性愛ではない。ただの愛だ」と言うとき、私たちの経験や想像を超えた、ホモフォビアというものがまるでない遥かな古の(あるいは未来の)世界を念頭に置いていたのでしょう。
 

 これまでも、同性どうしの恋を描いた映画に対して「これは同性愛ではない。ただの愛だ」「性別を超えた普遍的なラブストーリー」など、同性愛の(おそらく配給会社が抱いているのであろうネガティブな)イメージをなんとかして消し去ろうとする宣伝が繰り返し行なわれてきました。あらためて、このような不可視化は差別の一形態であるということを、ご承知いただきたいです。

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