REVIEW

あの痛ましい事件を風化させないように――との願いで編まれた本『一橋大学アウティング事件がつむいだ変化と希望 一〇年の軌跡」

ゲイの学生・Aさんが2015年8月24日に一橋大学の校舎から転落して亡くなってから10年となる命日に、『一橋大学アウティング事件がつむいだ変化と希望 一〇年の軌跡」という本が出版されました。痛ましい事件が二度と起こらないように、この事件が風化してしまわないように、という願いのもと、事件に影響を受けて立ち上がった人々のおかげで社会がこの10年でどのように変わってきたかということやアウティングの問題の本質がまとめられた一冊になっています

一橋大学アウティング事件について

 2015年8月24日、一橋大学法科大学院(ロースクール)に通うゲイの学生が校舎から転落死しました。彼(Aさん)は同級生が参加するLINEグループでゲイであることをアウティングされたのち、精神に不調をきたし、大学のハラスメント相談室などに助けを求めましたが、状況が改善することはなく、Aさんは帰らぬ人となってしまいました…。翌年、遺された両親が同級生と大学を相手に損害賠償を求めて東京地裁に提訴しました。このニュースで初めてAさんの転落死を知ったLGBTQコミュニティの人たちはたいへんなショックを受け、胸を痛め、「彼は私だ」と言い、それぞれにできることをやろうと思いました。なかでも、同じ一橋大学の卒業生である松中権さんやLGBT法連合会の神谷悠一さんなどは学内に「プライドブリッジ」という団体を立ち上げ、寄付講座を開催したり、講演や集会を開いたりしました。それだけでなく、学内にLGBTQ学生らを支援するサークル「LGBTQ+ Bridge Network」も作られ、(コロナ禍で献花台も作れなかった際は)追悼の動画を発表したりしました。一橋大学がある国立市は全国で初めてアウティングの禁止を盛り込んだ条例を制定し、その後もいくつもの自治体で同様の条例が制定されました。2019年にはパワハラ防止法にアウティングも盛り込まれることとなりました。2021年には『あいつゲイだって ――アウティングはなぜ問題なのか?』が刊行されています。
 
 Aさんのご遺族が訴訟を決意してくれたおかげで、転落死の事件のことやアウティングの問題が世に知られることとなり、とても他人事とは思えなかった松中さんや神谷さんらが社会を変えるためにさまざまな活動を展開し、実際に変わってきました。2018年に明治大で開催された「一橋大学アウティング事件裁判:裁判経過報告と共に考える集い」でも語られているように、もう二度とこのような悲劇を繰り返してはならないとの松中さんの強い思いが、プライドハウス東京や、レインボー国会や、法整備に向けた活動などに込められています。まるで「弔い合戦」のように…。
 一橋大学アウティング裁判をきっかけに動いてくれた人たちのおかげもあり、この10年でずいぶん社会が変わりました。Aさんの死から10年を迎えるにあたり、事件を風化させないようにしよう、という皆さんの思いで、「一橋大学アウティング事件がつむいだ変化と希望 一〇年の軌跡」が作られることになりました。クラファンに参加された方も多いと思います。コメント欄にも、痛ましい事件が二度と起こらないように、この事件が風化してしまわないように、という、趣旨に賛同するコメントが並んでいます。思いを同じくする人たちのおかげで、無事にクラファンも成立し、ちょうど10年の命日となる日に本が刊行されました。
 

『一橋大学アウティング事件がつむいだ変化と希望 一〇年の軌跡」レビュー

 第二章「彼が遺した「黄色い一枚の絵」、家族や友人の「希望」を、未来につなぐために」を読んで、これまでニュースではそれほど具体的に語られてこなかった、Aさんの人となりや生前の様子が生き生きと伝わってきました。男子校時代の、いつも明るくて仲間の輪の中心にいるような、それでいてわかりやすくゲイだと思われるようなキャラだったり(そういうあだ名がついていたり)、同級生に告白したこともあるというエピソードや、大学の集まりで自己紹介するときにエルガーの『愛の挨拶』(世界中で愛されるチャーミングで素敵な名曲)を弾いていたくらいチェロが好きだったけど、松中さんが実家におじゃました際、Aさんの部屋に飾ってあったチェロの絵が、よく見ると、弦を巻くペグの部分がタキシードを着た男性2人になっているゲイテイストな作品だったことなどです。告白された同級生の方は「隣のお兄さん」的な方で、名大医学部に進学して今はお医者さんになってるようです。
 ご家族のこともいろいろ書かれています。ご両親は今は、アウティングした人にも一橋大学にもすでに怒りや憤りはなく、今感じているのは、その後音沙汰がなく、忘れられてしまっているのではないかという悲しみの感情だということでした。
 
 第二部「一橋大学アウティング事件と大学」では、大学という場に特有のSOGIハラやアウティングの扱いの難しさはありながらも、事件をきっかけに大学が(社会も)変わっていったということが語られました。
「LGBTQ+ Bridge Network」の代表を務めた本田恒平さんが一橋大学の学内環境について検討・詳述した「ハラスメントと大学と学生―研究と教育を支える環境とは」では、大学という高等教育における(職場では確立されている)安全配慮義務が曖昧であるのは、大学が構成員を「自立した個人」として位置付けていることに起因すると指摘されています。そのため、ハラスメントの個別事案の対応に対しては、大学が介入するのではなく、被害者がハラスメント相談室などに自主的に訴えて初めて解決が図られる、それでもハラスメント対策委員会が「たいしたことではない」と判断すれば対応が行われない可能性があり、被害者が救済されないリスクを孕んでいる、とのことでした。「LGBTQ+ Bridge Network」はキャンパス内でSOGIハラに関する実態調査を行い、さまざまな方から声が上がり、異性愛主義に基づく差別的言動やプライバシーへの無配慮の実態が浮き彫りになりました。そもそも問題の発見が遅れがちであるという構造的な問題を抱えた大学で、では、どのようにしてSOGIハラやアウティングを防いでいけるのか、ということが結びで提言されています。たいへん意義深い論考でした。
 一橋大学の教員で(現在はジェンダー社会科学研究センターの代表も務めています)事件を受けて「多様性について考える会」を開催していた太田美幸さんの「事件報道後、大学の内部では何が始まったのか」というコラムや、「プライドブリッジ」の副代表を務めた川口遼さんは「アカデミアの宿題―アウティング事件が大学に問いかけるもの」というコラムも掲載されています。川口さんは裁判中、Aさんが被害について相談した教職員に感謝の言葉を述べていたことがその対応の妥当性の根拠として用いられたことにショックを受けたそうです。「ハラスメント被害を受けた学生の立場の弱さを表しているように私には思えました」
 第六章「国立市の動き くにたち男女平等参画ステーション・パラソル」では、全国で初めてアウティングの禁止(とカミングアウトの自由)を条例に盛り込んだ国立市が、条例だけでなく、「男女平等参画ステーション・パラソル」を開設し、たくさんの方たちの相談に乗ったり、意義ある活動を展開してきたことがまとめられていました。
 
 第三部「一橋大学アウティング事件と社会」では、松岡宗嗣さんが『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』で書いたことのエッセンスとして、アウティングの本質的なところを実に的確にまとめていたり、東京新聞でずっと事件を追いかけてきたアライの奥野斐記者による寄稿も収録されたりしています。
 神谷悠一さんの「一橋大学アウティング事件を契機とした「アウティング」に対応する法制度の展開」では、神谷さんが尽力したパワハラ防止法を中心に、国や自治体がSOGIハラやアウティングのことにどのように向き合い、制度に盛り込んだりしてきたかということが整理されています。 
 そして最後に松中さんが、一橋大学アウティング裁判が始まった翌月に「世界に誇れる日本へ!LGBTへの差別をなくして、「ありのままの自分」で生きやすい社会を実現する、法律をつくってほしい!」という署名を立ち上げてから、レインボー国会を開催し、プライドハウス東京を設立し、LGBT平等法の設立を求めて活動し、G7広島サミットに合わせて「Pride 7」を立ち上げ…というこの10年の活動を振り返っています。この10年は、初めて同性パートナーシップ証明制度ができ、(LGBTブームなどとも言われましたが)急速に社会がLGBTQ支援の方向に変わっていった10年でしたが、その中心にいた松中さんの胸にはずっとAさんのことがあったのです。
 
 Aさんの悲劇は、私たちの心に、癒えない傷としてずっと残り続けることでしょうが、ご遺族が裁判を起こしてくれたおかげで、さまざまな方たちが立ち上がり、学内の環境を改善しようと動いたり、社会を変えようと動いてきて、実際に変わった部分(LGBTQ運動の重要な成果)もありました。
 この10年のそうした動きを振り返る本がAさんの命日に出版されて、きっとあの世のAさんも喜んでくれてるのではないでしょうか――。事件を風化させず、忘れ去られたとご両親が嘆かなくてすむよう、折に触れて語り継いでいきたいですね。


一橋大学アウティング事件がつむいだ変化と希望 10年の軌跡
編著:松中 権
著:本田恒平、太田美幸、川口 遼、木山直子、松岡宗嗣、奥野 斐、神谷悠一
刊:サウザンブックス
¥2,530(税込)




書籍発行・報告会

 9月9日(火)、書籍の発行を記念したミニ報告会が新宿ダイアログ・イベントスペースで開催されます。松中権さんが司会を務め、ゲストで本田恒平さんも登壇し、あの事件について語ります。19:30からは懇親会も開催されます(会費制:2,000円/1ドリンク+軽食付き)

日時:2025年9月9日(火)18:30ー19:30
会場:新宿ダイアログ・イベントスペース(新宿区新宿3-1-32 新宿ビル1号館3階)
司会進行:松中権さん
ゲスト:本田恒平さん
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