GLOSSARY

LGBTQ用語解説

ドラァグクイーン

 Drag Queenはゲイのクラブパーティを華やかに彩る、過剰にゴージャスな女装をしたゲイのパフォーマー※であり、世界中のプライドパレードで主役を張っている、そしてLGBTのカルチャーの代表格ともなっている存在です。
 Dragの由来は「裾を引きずる」だと言われています(裾が長いドレスを引きずるようにして歩くイメージ)。決してDrug(クスリ)ではありませんので、誤解を避けるために日本では「ドラァグ」という表記が用いられるようになりました。

※ドラァグクイーンはゲイの世界のカルチャーですから、基本的にクラブのドラァグクイーンはゲイの方なのですが、ドラァグクイーンのスタイルやゲイのクラブカルチャーに共鳴した女性(ごくまれにストレート男性)もドラァグクイーンとなることがあります。

 トランスジェンダー女性の方が、世間で女性として通用する外見を希求し、女性として扱われたいと強く願っているのとは対照的に、ドラァグクイーンは、巨大なウィッグ(カツラ)をかぶり、例えば、アイラインを異様に太くする、つけまつげを何枚も重ねてつける、眉毛をつぶし、実際の眉毛の上にアイブロウを描く、目と眉毛の間にダブルラインと呼ばれる「二重」のようなラインを入れる、実際の唇からはみ出すくらいリップを塗ってその周りを黒く縁どり、ラメだのスパンコールだのオーストリッチの羽根だの、ド派手なドレスを着て、10cm以上あるようなヒールを履き、現実に存在する女性とは似ても似つかないようないでたちで、ゲイクラブに現れます。女性に見えるような自然さではなく「フェイク」をこそ楽しみ、ド派手なゴージャスさ、過剰さを遊ぶようなパフォーマーです。これこそ「Camp」というものです。そして、たいへん「クィア」でもあります。

 一方、歴史をひもとくと、ドラァグのカルチャーは、警察に逮捕されたり殺されたり、ひどい弾圧を受けていたゲイたちの抵抗の運動でもあったということはご承知いただきたいです。
 『THE SONS OF TENNESSEE WILLIAMS』という映画に描かれていますが、同性愛が違法であった1950年代、ゲイに対するバッシングが続くなか、ニューオーリンズでゲイが殺される事件が起こり、地元のゲイたちは結束してマルディグラという有名なお祭りの「Krewe」(連=ソーシャルクラブ)を作り、「ストレートへの当てこすり」として伝統的・貴族的な様式をパロディにしたド派手な衣装を見せつけるかたちでマルディグラに参加しはじめました。1962年には初の「ボール」(ドラァグクイーンが次々に「生涯で最大の」コスチュームで登場。観客はフォーマルなタキシードで鑑賞)を開催しましたが、場所が小学校だったためにパトカーがやってきて、中止に追い込まれ、人々は逮捕されました。ゲイコミュニティはめげずにゲイの連を育て上げ、80年代には何十ものゲイ連が活動し、彼らが開くボールのチケットを買うために地元民はゲイの美容師たちにねだったといいます。エイズ禍が多くの命を奪い去りましたが、それでもゲイマルディグラは途絶えることなく現在まで続いています。ストーンウォールに10年以上も先駆けて始まった(警察の取り締まりも受けた)ゲイマルディグラ。勇気あるクイーンたちが、ゲイムーブメントの基礎となるものを生み出したのです。

 『ル・ポールのドラァグ・レース』を観たことがある方はご存じでしょうが、ドラァグクイーンのショーは、DIVA系女性歌手の歌に合わせて「リップシンク」(口パク)するものです(最近アメリカで「リップシンク・バトル」というショー番組が人気を博し、猫も杓子もリップシンクするようになりましたが、もともとはドラァグクイーンのカルチャーでした)。よくその歌がショーに選ばれる女性歌手は、古くはジュディ・ガーランドやシュープリームス(ダイアナ・ロス)、そしてマドンナ、カイリー・ミノーグ、ジャネット・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、ブリトニー・スピアーズ、レディ・ガガ…といった「ゲイ・アイコン」であることが多いです。


<ドラァグクイーンの起源>
 自らもドラァグクイーンであり、音楽学の博士号も持つレディ・J氏は、「drag(ドラァグ)」という言い回しが初めて使われたのは1860年代のビクトリア朝英国だとしています。当時の劇場などで活動していた二人組のパフォーマー「ボルトンとパーク」のアーネスト・ボルトンは、女性の衣装に身を包んだ自身の演技を「ドラァグ」と称していました。二人が演技をする際、ペチコートの裾を床に引きずっていたことに由来すると言われています。(ナショナル ジオグラフィック「ドラァグクイーンの歴史:秘密のパーティーからポップカルチャーへ、最初の「女王」は誰?」より)
 
 19世紀末の米国、ボードビルショーで女性になりきる芸が流行った時代、ウィリアム・ドーシー・スワンは自らを「the queen of drag」だと名乗りました。これがドラァグクイーンの起源だとされています。ウィリアム・ドーシー・スワンは1880年代〜1890年代に「Drag Ball」をワシントンDCで開催しましたが、何度となく警察の摘発を受けています。1888年、自身の30歳のバースデイパーティに華やかなサテンのドレスを着て臨んだウィリアムは、摘発にやって来た警官に対して「あなたたちは礼儀というものを知らないのね」と言って抵抗したそうです。これがLGBTQの歴史における初めてのプロテストだと言われています。ウィリアム・ドーシー・スワンは逮捕され、10ヵ月も拘留されたそうですが、クリーブランド大統領に減刑を求める手紙を書いています(クィアが大統領に物申したのもこれが最初です)

ジョブレインボー
レインボーグッズ