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オープンリーゲイの俳優、ジョージ・タケイ氏が来日し、国会議員と意見交換しました

 11月8日、世界中に熱狂的なファンを誇るSFシリーズ「スタートレック」でヒカル・スールー役を演じたことで知られ、ゲイであることをカミングアウトしている日系アメリカ人俳優ジョージ・タケイさん(80)が来日し、超党派の「LGBTに関する課題を考える議員連盟」との意見交換会(LGBT法連合会主催)に参加したほか、早稲田大学大隈記念講堂での講演会「ICC・GSセンター講演会「ジョージ・タケイ」を知る ~ブロードウェイ俳優×日系アメリカ人×ゲイ~」などに登壇しました。
 
 ジョージ・タケイさんは1937年4月、日系3世としてロサンゼルスに生まれました。1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃が行われ、それまで普通の生活を送っていた日系アメリカ人が一夜にして差別的待遇を受けることになり、翌年2月、フランクリン・ルーズベルト大統領の命令によって強制収容所へ連行されました。5歳だったタケイさんも家族とともに連行され、終戦までの3年余りを強制収容所で過ごしました。(この時の体験を元に『アリージャンス/忠誠』というミュージカルが制作され、ブロードウェイで上演されましたが、この舞台を記録した映像が日本でプレミア上映されるにあたり、ジョージ・タケイさんがPRのために来日したのでした)
 
 タケイさんはその後、人生で「もう一つの差別」を経験します。
 タケイさんは10代の頃、自分のセクシュアリティが他人と違うことに気づきますが、強制収容所に送られた経験から、「普通」から外れてしまうことの恐怖を抱き、周囲には言えなかったといいます。
「10代の頃は、誰もがみんなと溶け込みたい、仲間になりたいと必死になるものです。だから、周りが彼女をつくるようになれば、私も彼女をつくりました。男友だちからダブルデートに誘われたら、ダブルデートに行きました。でもいつも私は自分の相手よりも、男友だちのことが気になって仕方がありませんでした。「普通」でいたかった。安全でいたかった。日系人だというだけで犯罪者や敵と扱われた経験があったからこそ、とにかく「普通」でいたいと思いました。歳を重ねるにつれ、自分の中にある気持ちと向き合わざるを得なくなりました。ですが、同時に俳優というとても公で、多くの人の目に晒される仕事をする上で、「普通」でいることはとても重要なことでした。だから上映会や業界のパーティには、必ず女友だちを連れて行きました。私は仮面をかぶって生きていたのです」
 1950年代〜60年代当時、タケイさんが唯一、心から安心してくつろげる場所は、仲間たちが集うゲイバーだけでした。しかし、警察がゲイバーに踏み込んで客を署へ連行し、指紋や写真をとって名簿を作る抜き打ちの「捜査」が行われていました。逮捕された人々は、そのことが公になれば仕事や家族を失う恐れもありました。絶望した友人たちの中には追い詰められ、自ら命を絶ってしまう人もいたといいます。その苦しみは、タケイさんやその家族が日系人として経験した出来事と重なりました。
「あのひどい、正義に反する仕打ちは、私が5歳の時に日系アメリカ人として経験したのと同じ差別でした。私の両親が生活の全てを奪われたように。バーにいたLGBTは誰も傷つけずに、友人との時間を楽しんでいただけでした。なのに、その行為が犯罪とみなされ、逮捕されたのです。差別は「無知」から生まれます。人の生まれ持った違いや本質に目を向けないことから生まれるのです。また、差別は社会的な圧力や臆病から生まれます。人々は自分のありのままの姿を認めることを恐れ、正しいことのために立ち上がることが怖かったのです」

 早稲田大学での講演会で、タケイさんは熱狂的な歓迎を受けましたが(最後はスタンディングオベーションが起こりました)、学生の方からカミングアウトへを決意した経緯を聞かれ、こう答えました。カリフォルニア州議会で同性婚法案が可決された2005年、当時の州知事だったアーノルド・シュワルツェネッガー氏が(地盤である共和党の人たちの反発を危惧して)同性婚法案への署名を拒否し、ゲイ&レズビアンコミュニティの怒りが沸騰した際、パートナーと話し合って、カミングアウトすることを決意しました。「俳優としてのキャリアを捨てる覚悟もできていました」
 タケイさんは、2008年5月にカリフォルニア州最高裁が同性婚を認める判決を下すと、20年来のパートナーだったブラッド・オルトマンさんと結婚式を挙げ、そのニュースは日本にも伝わってきました。カミングアウトしたのが68歳、結婚したのは71歳の時でした。(2008年11月に住民投票でカリフォルニア州の同性婚が再び禁止され、そこから映画『ジェンダー・マリアージュ 〜全米を揺るがした同性婚裁判〜』に記録されているような最高裁へと至る裁判が始まります)

 ジョージ・タケイさんは2014年、GLAADメディアアワードにおいて、栄えあるヴィット・ルッソ賞(LGBTの不平等を改善することに最も貢献した当事者に贈られる最高賞。2010年はシンシア・ニクソンが、2011年はリッキー・マーティンが、2012年はアンダーソン・クーパーが受賞しています)に輝きました。
 同年、LGBTプライド月間を記念し、アメリカ国務省の主催でジョージ・タケイさんの来日講演が沖縄、東京、京都で行われ、また、アメリカ大使館でのプライド月間レセプションにも出席しました。

 その後もタケイさんは、同性婚をアメリカ全土に広げようという運動に賛同し、それは2015年に実現しました。より多くの人の支援を集めるために大切にしたのは、「私たちはみな家族である」というメッセージでした。
「LGBTはみな、誰かの家族なのです。私たちは息子であり、娘であり、兄弟であり、姉妹であり、場合によっては父親や母親なのです。血縁者であり、血と肉を分け合っているのに、その仲間を差別することは自然ではありません。最も自然なのは子から親への愛、そして親から子への愛なのです。私たちはそれを(アメリカで)強調しました。家族であること、血縁があること、私たちは家族の一員であること。それが議員たちに伝わり、彼らは自身の息子や娘たちがゲイであることを知り、その子供たちの大きな支えになりました」

 国会で行われた議員たちとの意見交換会で、タケイさんは、レインボーという言葉に込められた意味と、3年後に控えている東京オリンピックを引き合いに出し、こうメッセージを送りました。
「私が今回泊まっているお台場のホテルからは、レインボーブリッジが見えます。虹はたくさんの色が一つになって、分断を生む水の上に橋を架ける。レインボーという言葉は、私たちLGBTにとって本当に多くのことを象徴する言葉なんです。3年前に日本へ来たとき、ファーストレディである安倍昭恵さんが(LGBTヘのサポートを表明する)東京レインボープライドのパレードに参加したときの話をしてくれました。アメリカのプライドパレードに、私たちのファーストレディが参加したことはありません。あなたたちはもうそのサポートを得ることができている。これはすごいことなんです。だからこそ、3年後に世界中から最高のアスリートたちが集まってくる祭典が開かれるときまでに。日本が真に「虹色」の国になっていることを、私は願います」

 

参考記事:
「人と違うことが怖かった」 スタートレックのジョージ・タケイが国会議員と意見交換(BuzzFeed Japan)


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